千明@その他諸々

会津藩:あいづはん

19世紀に入り日本沿岸での外国船の出没を知らせる廻船よりの報告は、鎖国をしている幕府にとっては穏やかではありませんでした。そこで幕府は江戸湾の防備を親藩であった会津藩に任せました。
1810(文化7年)、会津藩の武士達は、家族を伴って、故郷を離れ、横須賀は鴨居の地に陣築き、以後十年間三浦半島で江戸湾の防備に当たりました。
この縁あってか、後に浦賀で成功した会津藩士「
穴沢与十郎」もいました。

咸臨丸:かんりんまる

1857年(安政4年)に江戸幕府がオランダに建造させた蒸気内輪型の軍艦(ヤパン号)です。
咸臨丸の名前は「易経(易学の元になった教え)」に記述されている「咸臨貞吉(君臣は互いに親しみ厚く、情けあまなし)」の言葉から名付けられました。
1853年(嘉年6年)の黒船来航の7年後、1860年(安政7年)に日米修好通商条約批准書交換の為に遣米使節新見正興がアメリカの軍艦ポーハタン号で渡米するにあたり、万が一に備えて幕府は随行艦として従えさせました。
軍艦奉行・木村攝津守喜毅と勝麟太郎以下90名による、日本人操舵による最初の太平洋横断に成功した船となります。
遣米使節は1月13日品川沖を出港し、16日に浦賀港に入港。2日間の物資補給後、19日の15:30に出港し、39日間をかけてサンフランシスコに入港しています。帰港は1860年(万延元年)5月5日です。

三浦一族:みうらいちぞく

平安末期、三浦半島でもっとも勢力を振るっていたのが三浦一族。
初代為通(ためみち)は源頼義から三浦半島に領地を与えられ、その中央にある衣笠に城を構える。
その後勢力をのばし、4代目義明(三浦大介義明)の時に相模国最大の豪族となる。
義明は寛治六年(1092)に衣笠城で生まれ、文武両道に長け、13才の頃から数々の合戦に上げる。
治承4年(1180)に頼朝が兵を挙げた時に援軍を送ったことで、衣笠城は平家三千余騎に囲まれ、一族脱出の後、義明一人が衣笠城とともに最後を迎えた。
この義明の行動は三浦一族の評価を上げ、その後の幕府の要職につく要因となる。
義明無き脱出した一族は、安房に逃れて頼朝の軍に加わっている。
鎌倉時代に頼朝は、義明のたたえて満昌寺を建立する。

三笠:みかさ

日本海海戦においてバルチック艦隊を破った、東郷大将率いる旧帝国海軍連合艦隊の旗艦。
1926年(昭和元年)記念艦として横須賀白浜海岸(現在の三笠公園内)に固定保存される。

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