千明@横須賀の人々

横須賀の人々


朝井閑右衛門:あさい かんえもん
戦後の洋画界の代表的な画家。具象画の第一人者であり、独創傑出の画家と言われる。大阪市出身。昭和11年「丘の上」の発表で脚光を浴びる。
昭和22年から約20年間田浦に在住し、田浦時代と言われる独自の画風を成熟させた時期にあたる。
1996年油彩画、水墨画、デッサンなど約950点の作品が遺族より横須賀市に寄贈される。

穴沢与十郎:あなざわ よじゅうろう
1840年(天保11年)1月生まれ。武士から商人へ転身し浦賀で成功を収めた会津藩士。
明治維新で破れた会津藩が陸奥国斗南藩へ転封されたことにより、武士に見切りを付け、江戸の本郷菊坂台で、会津藩出入り商人稲谷繁吉の元に身を寄せて味噌醤油の商をはじめる。
1871年(明治4年)西浦賀宮下町(西浦賀1丁目)において、身分を武士から商人とし、浦賀は元より、三浦半島でも名のしれた業績をあげる。
商売にだけでなく、教育環境作りに熱心で当時では珍しいガラス窓のある西岸学舎の新築に貢献する。1887年(明治20年)には、歴代の実力者を抜いて浦賀戸長(町長)に就任。1889年(明治22年)の初めての町議会議員選挙では初代選挙管理委員長を努め、その後、県会議員、群会議員を歴任する。
1840-1912

ウェルニー:フランソア・レオンス・ウェルニー
フランス海軍技師。1837年フランス生まれ。
フランスのブレスト市の海軍工廠で造船技師を務め、1865年(慶応1年)中国上海より横須賀製鉄所所長として来日する。製鉄所建設中に、フランス公使の斡旋により、江戸条約による観音埼灯台、野島埼灯台を建設する。その他、城ヶ島灯台、品川灯台、走水水道も建設する。
製鉄所内では造船所技術者養成学校を開講し、日本人技術者の育成やフランス留学にも貢献する。
1998年5月にはウェルニーのサインが入った造船所技術者養成学校の卒業証書が見つかっている(東京新聞より)。
1876年(明治9年)帰国。1908年、没。享年71歳。
1836-1908

榎本武揚:えのもとたけあき
幕末・明治の政治家。子爵。通称「釜次郎」と呼ばれていました。
オランダに留学して、帰国後海軍の副総裁になっています。維新の内乱では函館五稜郭に立てこもり官軍に抵抗をした。
維新後、駐露公使としてロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ。諸大臣も歴任する。
1836-1908

小栗上野介忠順:おぐりこうずのすけただずみ
幕末の旗本。1827年(文政10年)江戸駿河台に生まれ、17歳より幕府に仕える。
1860年(万延一)34歳の時に通商条約批准交換のため渡米。のち外国奉行・町奉行・勘定奉行・軍艦奉行を歴任。ロシアとの折衝、フランス士官の招聘、製鉄所(軍艦造船の為)の経営などに尽す。1864年(元治元年)フランス公使らと伴に横須賀港を視察し、フランス軍港ツーロン港と似ていることから横須賀に製鉄所を設置することを決める。
徳川慶喜の恭順に反対して辞職。42歳の時に領地の上州権田村で官軍に殺された。
1827-1868

後藤利兵衛:ごとうとしべい
安房国朝夷郡北朝夷村に生まれる。大工の父の子として14の頃に彫った大黒天像は故郷の愛宕神社に残る。1837年(天保8)23歳の年に、江戸京橋の彫刻士、後藤三次郎恒俊の弟子になり、後藤の名字と利兵衛義光(後に光定)の号を受ける。1840年(天保11)から1842年の間に手がけた西浦賀の西叶神社の彫刻は、今日でも彼の出世作として、また、生涯を通じての最高傑作の一つとして評価されてる。
1902年(明治35)故郷にて88歳で他界する。
1815-1902

鈴木長吉:すずきちょうきち
1854(嘉永7年)5月、浦賀大ヶ谷幕府造船所で作られた洋式軍艦「鳳凰丸」の建造に従事した造船技術者の一人。
1818(文政6年)伊豆賀茂群河津浜に生まれる。成人後、浦賀へ船大工の修行に出る。
鳳凰丸の建造時は、造船御用を努める。建造後は、長崎海軍伝習所にて二年間、オランダ蒸気船に関する技術を得る。技術習得後は、江戸の軍艦操練所にて教官となる。
1860年(安政7年、万延元年)正月、咸臨丸に大工頭として乗艦する。サンフランシスコではメーア島で咸臨丸の修理に従事する。
帰国後、1863(文久2年)、江戸の石川島で日本人だけの手による日本初の蒸気軍艦「千代田形」の船体建造に設計者の春山弁蔵と共に携わる。
維新後の1870年(明治3年)からは、月給50両の高給で横須賀製鉄所に勤務し、船渠工場頭職までになるが(1872年(明治5年))、その年に行年55歳で病没する。
1818-1872

高浜虚子:たかはまきょし
本名、清。愛媛県松山に生まれる。二高中退。俳人・小説家。
正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠の客観写生を説いた。「五百句」、「虚子俳話」など。「俳諧師」、「風流懺法」など写生文の小説でも知名。文化勲章を受賞している。
1874-1958

谷内六郎:たにうちろくろう
大正12年(1921)、東京恵比寿に生まれる。9人兄弟の6男。叙情画家。
昭和31年(1956)から昭和56年(1981)に急性心不全で亡くなるまでの25年間、週刊新潮創刊号より表紙絵を担当する。その枚数は合計1303枚。子供の感情や感覚を叙情的に表現した作風は一つの世界を形作っていた。(30代から上の年代の方々は、赤とんぼのメロディーをバックに「週刊新潮は明日発売です。」と言うフレーズを聞くと、きっと 思い浮かべる絵があると思います)
昭和10年(1935)、駒沢尋常小学校高等科卒業後、見習い行員、看板書き、雑誌社給仕を勤めながら、漫画やカットを新聞・雑誌に投稿する。
持病の喘息の為、昭和13年(1938)より療養生活が始まる。昭和30年(1955)「行ってしまった子」が文藝春秋第1回漫画賞を受賞する。
昭和50年(1975)に横須賀鴨居にアトリエを構え、観音崎を中心とした情景の作品が多くなる。
1921-1981

團 伊玖磨:だんいくま
1945年(昭和20年)東京音楽学校(現東京芸術大学)作曲家卒業。以後、作曲ならびに自作の演奏に従事する。日本芸術院会員。横須賀シアターセンター副理事長。昭和48年3月横須賀市秋谷に相模湾を一望する居を構える。
2001年(平成13年)5月17日、日中文化交流協力会会長として訪問していた中国・蘇州市にて心不全のため77才にて亡くなられました。
作品は交響曲6曲、オペラ(夕鶴、ひかりごけ、ちゃんちき、素戔鳴(スサノオ)等)6曲、ほか管弦楽曲(飛天繚乱、シルクロード等)、歌曲、合唱曲等多数。横須賀市歌組曲「横須賀」の作曲も行う。
特にオペラ「夕鶴」は 1994年3月に上演600回を数え、名実共に日本を代表するオペラとなっている。現在でも創作意欲は活発で、1994年秋にオペラ「素戔鳴」を完成させ、1997年には新国立劇場開館記念事業の一環として「建・TAKERU」を初演する。
音楽のみならず、エッセイストとして朝日グラフに「パイプの煙」を30年以上連載している。
1998.5.11、自筆の楽譜やエッセイの原稿など3000余点を横須賀市に寄贈する。(東京新聞より
1998.11、国際交流基金賞を受賞する。(東京新聞より
1924-2001

長岡半太郎:ながおかはんたろう
肥前の国大村で大村藩士の長男として生まれました。物理学者。大阪帝国大学の初代総長。文化勲章受章者の第一号受賞者。 地球物理学、磁気ひずみ、原子模型、コイル係数、原子スペクトルに関して貢献しています。昭和45年、彼の名前は月のクレータにも命名されています。
明治43年から昭和25年の40年間、北下浦海岸沿いの長沢の農家を購入し別荘として使用する。大正13年、北下浦で関東大震災を被災したが、克明な地震記録を残し、長沢断層を発表しました。
慶応元年-昭和25年

中島三郎助:なかじまさぶろうすけ
ペリーが浦賀に来たときの浦賀奉行所与力。

ペリー:Matthew Calbraith Perry
アメリカ海軍軍人。1853年(嘉永6年)6月東インド艦隊を率いて浦賀に来航し、日本の開港を要求する大統領の親書を幕府に提出しました。翌年江戸湾に入港し、横浜で和親条約を結びました。
帰国後、「日本遠征記」を表しています。
1794-1858

前島密:まえじまひそか
我が国の近代的郵便制度の創始者。越後の人。外遊後、駅逓頭となり、「郵便」、「切手」等の名称を定め、逓信官業を統一しました。
国字改良論者としても知られています。
晩年(明治44年(1911年)77才の時)を横須賀市芦名の浄楽寺境内に如々山荘なる別邸を設け、ここで過ごす。
大正8年4月、85才の天寿を全うする。
別邸にて、鴻爪痕(こうそうこん)と題した自叙伝を執筆する。
自叙伝によると、天保6年(1835)新潟県高田市池部(現在の上越市)の農家に生まれ、生後8ヶ月で父を失い、賢母のもとで成長し、13才の時に江戸に出て漢学、医学、蘭学を学んだ。
1835-1919

正岡子規:まさおかしき
俳人・歌人。名は常規(つねのり)。別号は獺祭(だつさい)書屋主人・竹の里人。松山市の人。日本新聞社に入り、俳諧を研究。雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句・写生文を首唱、また「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めた。その俳句を日本派、和歌を根岸派という。
1867-1902

三浦按針:みうらあんじん
ウイリアムアダムス
日本に来た最初のイギリス人。 1600年(慶長5年)、オランダ船リーフデ号の水先案内人として日本(豊後)に流れ着き、徳川幕府に外国事情や航行技術の伝授、伊豆伊東で帆船の造船に携わりました。その功績に対して幕府より日本橋の屋敷と、逸見(相模国三浦郡逸見村)に250石の領地を授かり三浦按針(みうらあんじん)として日本で余生を送りました。
日本橋大伝馬町 馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョセフとスザンナの一男一女を残しましたが、長崎の豪商 木田弥次右衛門宅にて病で亡くなりました。
按針とは水先案内人です。
1564-1620:長崎平戸にて病没。

与謝野晶子:よさのあきこ
歌人で寛の妻。堺市に生まれる。旧姓は鳳(ほう)。
新詩社に加わり、雑誌「明星」で活躍しました。格調は清新で、内容は大胆奔放と言う評価が一般的です。
主な作品は、歌集「みだれ髪」、「佐保姫」、「春泥集」のほか「新訳源氏物語」等があります。
1878-1942

与謝野寛:よさのひろし
詩人・歌人でありはじめは鉄幹と号していました。晶子の夫。京都に生まれる。
落合直文に学び、浅香社・東京新詩社の創立、「明星」の刊行に努力し、新派和歌運動に貢献をしました。
自我の詩の主張と言う評価が一般的です。
作品には、詩歌集「東西南北」、「天地玄黄」、歌集「相聞」等があります。
1873-1935

吉野秀雄:よしのひでお
高崎市に生まれ,少年期を富岡で過ごす。歌人を志し会津八一に学ぶ。生命感の溢れる短歌作品で昭和年代の日本歌壇に高い評価を得た。国文学に通じ著作も多い。
1902-1967

若山牧水:わかやまぼくすい
宮崎県出身の歌人。本名、繁。中学時代より牧水を号とし文学活動を行っており、早稲田入学とともに尾上紫舟の門下に入りました。平易純情な浪漫的作風で、旅と酒の歌が多くみられます。その為か、酒仙や漂泊の旅人の異名があります。歌誌「創作」を主宰しました。
妻喜志子の病後療養のため、大正4年3月19日長男旅人を伴い神奈川県三浦郡北下浦村(現在、横須賀市長沢)に転居してきましたが、翌大正5年12月28日には東京小石川へ引き上げています。この間に、長女みさき出生や転居歌集「砂丘」出版が行われています。
1885-1928

../横須賀の紹介../../千明@横須賀
chiaki